こんにちは。今日は前回の投稿で少し触れたように、私の不調の原因とそれをどのように乗り越えてきたか –自分では調子が戻ってきているとは思ってはいても試合に出れていないいない以上はどのように乗り越えようとしていると言った方が適切かもしれませんが– その方法について書いていこうと思います。
この話をするにあたって、私としてはできればあまり掘り起こしたくない記憶の一つなのですが、当時高校生だった私が経験した年代別W杯でのことからまず話さなければなりません。普通であれば誇るべき経歴の一つとして数えられるべきである経験が私にとってはあまり触れてほしくない思い出となってしまった原因と今回のドイツでの不調の原因は同じであると自己分析をしているからです。
ドラマやアニメなどのテレビの向こう側でしか存在しない架空のキャラクターとは違い、日本代表としてプレーする選手たちは現実に存在するにも関わらず、高校入学前の私にとっては雲の上の存在であり、まして私自身が日の丸を背負ってプレーする日が来るなどとは夢にも思っていませんでした。アカデミー福島の受験に落ち、ナショナルトレセンですら参加できたのは中学3年時の一度のみ。順心のコーチ陣にも”正直せりなのような選手がいるのは全く知らなかった”といわれるくらいに無名だった当時の私にとっては当たり前といえば当たり前な感覚だったのかもしれません。そのためか、順心の同期の選手たちのなかに代表経験がある選手も何名かいたことを知ったときも、”いつかは私も!”と意気込みより”代表とかすげー”と感嘆の声をあげるばかりでした。笑 そんなテレビの向こう側のような存在だった日本代表が突然私の眼の現実となったのはそう遅くもない高校一年の静岡県予選を終えてすぐの頃でした。コーチに呼び出され、”おめでとう”という言葉とともに伝えられた内容にどう反応したかは覚えていませんが、寮に帰ってすぐに嬉々と母に一報いれたことははっきりと覚えています。私が初めて招集を受けたのは”なでしこチャレンジプロジェクト”とよばれるもので、若手の育成を目的に行われるトレーニングキャンプで期間も短く対外試合はありませんでしたが、それでも私の心を浮きだたせるには十分でした。
現在なでしこジャパンを率いる高倉監督、大部コーチの下で U-15世代としてトレーニングしていた私たちの横では、吉田弘監督率いるU-17世代の代表選手たちがトレーニングを行っていました。当時、藤枝順心のライバル校ともいえる常葉橘高校の指揮をとられていた吉田監督。あとから話を聞けば、県予選の決勝で常葉橘と対戦した際、センターバックの一人としてプレーしていた私にことごとく攻めどころを潰され、それがきっかけで合宿のメンバーとして推薦してくださったのでした。初めての合宿では吉田さんとの接点はあまりなかったものの、U-16, U-17としての活動するようになってからは本当にお世話になりました。いま振り返ってみて、順心での3年間はいまの私をつくるためには絶対に必要であったと確信をもって言える半面で、もう一度当時に戻って同じことを繰り返すとなると尻込みをするほどしんどい日々でした。ですが、それでもサッカーをやめたいと思ったことは一度たりともありません。そしてそれは吉田さんが与えてくれた代表という高いレベルのサッカーを経験するチャンスと、そんな”吉田さんを世界一の監督にする” という想いの強さからだったと思います。
しかし、結果として私はそんな吉田さんに対して恩を仇で返すようなことをしてしまいます。吉田さんを始めとするコーチ陣、チームメイトから信用されてキャプテンマークを託されるような身でありながら、W杯ではプレッシャーに押しつぶされ、自分のプレーを見失い、大会期間中にスタメンから外されてしまったのです。私たちの大会が行われる少し前に男子南アフリカワールドカップが開催され、その大会ではベンチメンバーに関してクローズアップした記事が多く発信されていました。中村俊輔選手や川口能活選手らベテランを始めとし、ベンチに甘んじている選手らがいかに悔しさを堪えてチームとして闘っていたか。”自分がこの選手たちと同じ局面に陥ったとして、果たして同じような行動がとれるのだろうか?” コンビニで立ち読みをしながらそんなことを考えていた私が数ヶ月後、まさに”その局面”に陥ることになろうとは少しも予想していませんでした。正直大会期間中は何回も涙を流し、見知らぬ黒人の婦警さんにハグされながらなだめられたこともありました。笑 アイルランド戦後、ピッチ上のウォーターボトルを拾い集める途中に自然と涙がこぼれ落ちてきたこと、試合前にプレーする選手たちを自然な笑顔で送り出せてあげられなかったこと。”もっとうまく立ち振る舞えなかったのかな?”と、当時のチームメイトたちには本当に申し訳ないことをした思っています。ですが、そんななかでもチームキャプテンという以前にチームのメンバーの一人として”チームのため”という必要最低限な気持ちを忘れることがなかったのは、南アフリカでの男子代表の記事が常に頭のなかにあったからでした。要所要所で悔しさを堪えられない瞬間がでてしまったのは若かったなと思いますが、それでも試合にでれないメンバーを集めてみんなで泣きながらミーティングしたり、試合にでれない立場を活かしてといえば語弊があるかもしれませんが、その立場であるからこそできることを考えて行動には移せたかなとも思っています。いつもいつも、最後の最後で詰めが甘いなとやりきれない思いにもなりますが、あのときの期待に応えられなかったぶんこれからの成長で返していきたいという気持ちが前に進むための推進力になっていることも確かです。
ところで、いつものごとく前置きがかなり長くなってしまいましたが、そもそも私はなぜあのときに突然不調に陥ってしまったのでしょうか?簡単にいえば、ミスや失敗を恐れてしまったのです。”勝って吉田さんを世界一の監督に” その目標への想いが強ければ強いほど、近づけば近づくほど、私のミスでチームの足を引っ張ることを恐れてしまうようになってしまったのです。また、ドイツへきてからの不調も、きっかけこそは違えど、結局はミスを恐れるメンタリティになってしまったことが原因です。まあなんとも日本人らしいメンタリティだなと自分でも思いますが、ではなぜミスを恐れてしまうのか。私はこれは周りの目を気にしてしまうからだと思います。例えば周りに誰もいない、一人っきりの空間でミスを犯してしまったところで、ある程度の羞恥の気持ちにかられることはあっても、そのミスをずっと引きずって極端にミスを恐れるようなことにはならないでしょう。しかし、自分の部屋に一生閉じこもる生活を選ぶというのであれば話はまた別ですが、基本的に周りとの関わりを無にして生活をするということはまず不可能であり、それゆえに人は周りの目を気にしてしまうもので、ミスを犯してしまって自身に負い目があるときは尚更なことでしょう。サッカーにおいても同じで、だいたいミスを恐れることになってしまうきっかけは、ミスをしてしまった瞬間に周りからぎゃーぎゃー怒鳴りつけてくる監督であったり、チームメイト、または保護者でしょう。怒鳴られることで、”次ミスしてしまったら一体なんと言われるのか、もう絶対にミスすることは許されない”と、余計に周りの目を意識し始めてしまうのです。また怒鳴られた原因も意図はどうであれ結局は自身のミスであるため、強気にでることもためらわれ、もうこなってしまうとどツボです。”頼むから私にはボールを回さないでくれ”と一体なんのためにサッカーをしているのかわからない最悪な状況に陥ってしまいます。読んでいて”その気持ちわかる”、という人もたくさんいるでしょう。私もドイツに来てからはまあいろいろなことが重なり、このメンタルの負のスパイラルにはまってしまっていました。どん底の時期はかなりきつかったですし、思うように自分のプレーができないというのはさらに堪えましたが、いまではそのスパイラルから抜け出し、どんなに周りから怒鳴られようとけろっと受け流せるようになってきました。ではどのように気持ちを切り替えてきたのか。実はここからの内容こそが今日の投稿のタイトルにも繋がってくるのですが、長くなってきたのでそれについては次回詳しく書いていきます。笑
樫本家の次女、”みーちゃん”
怒られようが、足蹴にされようが、御構い無しに自分のやりたいことを貫き通す姉御です(笑) ピッチ上では彼女のようにふてぶてしくいられることも必要なのかもしれません